【勘違い】

こっちで通うことになった大学はロジャー・ウィリアムズ大学といった。建築学科が有名で、それ以外の学部は余りぱっとしない、中の下程度の大学。入り易くて、ニューポートからも比較的近いという条件でハルが選んでくれたのだ。渡米前にハルはぼくのために願書を取り寄せ、ほとんどすべての項目に記入してくれた。願書と日本の大学の取得単位証明書を送り、ほどなくすると“ACCEPETD”と書かれた書類が大学から送られてきた。なんだ、留学ってこんなに簡単なんだ。

ぼくは単純にアメリカの眩しいキャンパスライフを夢描いていた。

ニューポートに来て1カ月以上が過ぎた。7月下旬になって、送られてきた書類に書かれていたオリエンテーションが行われる日に大学に行って、学生課で手続きをすると、○○教室に行けと言われた。

その教室に入ると、そこには50名ほどの学生でいっぱいで、彼らはみんな南米やアジアなどから来た留学生だった。担当の教授が入ってきて、話した内容に驚いた。なんと、ここに集められた学生は留学生別科、つまりは語学学校に入学、もしくは既に在籍する者たちで、本科に入るにはそのためのテストに合格しなければならないという。話が違うじゃないか! 書類にはAccepted って、つまりは「合格」って書いてあったよな。しかし、そうではなかったのだ。Acceptedとは、単に、「受け入れる」という意味だったのだ。


頭の中は真っ白になって呆然としていると、一人のアジア系の男が何か質問している。それはネイティブのように流暢な英語に聞こえた。彼はすでに3年間もこの留学生別科に在籍しているという。こんなやつでもダメなんだ。語学学校なんて話が違う。ぼくが願書をだしたのは政治科学部だ。金髪で、かっこいいアメリカ人たちとのキャンパスライフだ。


1週間後にテストがあるという。基礎的な英語力をはかるミシガンテストと呼ばれるものと、小論文の2つの試験。ミシガンテストは100点満点で95点が合格ラインだという。そのふたつをクリアすれば、日本のかつての共通一次やセンター入試にあたる「SAT」の数学と国語を受験でき、この大学の基準点を超えれば本科に入れるという。そんな。95点? さっきの学生でもダメなのに、受かるわけない。しかも、それをクリアできたとしても、数学?? こちとら、算数、数学の類はからきしダメで、自慢じゃあないが、高校のときに受講したのはたった1年、しかもいつも必ず赤点だった。100点満点の9点をとったこともあるのだ。

教室をでると絶望で頭が締め付けられるようだった。留学を予定したのはたったの1年(結局は2年いることになるのだけれど)。語学学校に通っている時間はない。しかも、夢見ていたのは、アメリカ人の友人やブロンドのかわいこちゃんとのキャンパスライフだ。

すぐにその場でテストがはじまった。ミシガンテストは日本の高校1年生から2年生くらいの英語をしっかりと理解していれば、解けなくはないレベル。そして、小論文は自由筆記だった。なんでも良いから好きなことを書けと言われる。

とっさに思いついたのは同じ日本人で、アメリカで活躍する小野洋子のことだった。ぼくは、小野洋子がいかに尖鋭的で優れたアーティストであり、かのジョン・レノンにいかに影響を与えたかを、これまでに読んだ数え切れないほどのビートルズ本の内容を思い出しながら、知っている英語を必死で並べて書いていった。


数日後、“受験生”がその教室に集められた。合格だった。ミシガンテストは92点。合格には3点足りなかった。しかし、「小野洋子のレポートは面白かった。だから君は合格さ」、と髭をたっぷりとたくわえた教授からウインクされた。50名くらいの学生の中で第1段階をクリアしたのはわずか数名だった。


その後SATを受験し、幸運にも“本科”に合格することができた。「国語は落第点だったが、数学が非常によかった」と、耳を疑うコメントが合格を証明する書類に書かれてあった。アメリカ人の数学のレベルが低いことがよくわかった。問題自体も、分数の足し算とかもあったし、半分くらいは日本の中学生レベルのものだったと思う。とにかく、良かった。ほっとした。これで、日本に帰っても、アメリカの大学に留学したと言えるし、送り出してくれた親にも顔向けができる。あこがれのアメリカのキャンパスライフがはじまるんだ。


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はじまりはソフトボール】


ニューポートに来たばかりのころ、ハルの家に居候しながら、特にやることもなく、ただブラブラとしていた。とりたてて行きたいわけでもないのに図書館に行ったり、街中をあてもなく散歩したりして時間をつぶすしかなかった。そんな退屈でしようがない1週間ほどが過ぎたころ、ハルの弟の(後に生涯の親友となるわけだけれど)デニスが気のない顔で「ソフトボール行くけど、もし、やりたかったら、一緒に行く?」と聞いてきた。ソフトボール? やりたい、やりたい。元野球少年だし。ひまを持て余していたぼくはデニスに連れられて、近くの公園にでかけた。


そこには既にデニスの友人たちが男女合わせて20人くらいが、クーラーボックスから取り出したビールやコーラを飲みながら、ソフトボールに興じていた。途中から参加だったので、とりあえず、ぼくはグローブを渡され、センターとレフトの間の守りにつかされた。センターには、少しだけぽっちゃりした、とびっきりの可愛い女の子がいる。


アメリカはソフトボールがとても盛んで、週末になれば、どんな街に行っても公園でソフトボールを楽しむ人々の姿を見ることができる。ピッチャーは山なりにボールを投げるのがルールなので、老若男女だれしもが楽しめるスポーツなのだ。ここニューポートのデニスの友人たちも、夏の間の日曜日はビールを飲みながら公園でソフトボールをするのが習慣になっていた。


ぼくがゲームに加わってすぐのことだった。大きな強いライナー性のあたりがレフトとぼくの間を抜けようとしていた。ぼくは走ってジャンプしながらボールをキャッチした。どよめきが起こった。ウォー!! 同じチームの者たちは嬌声をあげ、アウトになったバッターは本気で「なんだよ!あのあたりが捕られるなんてありえないだろ!!」とバットをたたきつけている。センターの女の子は「グレーーイト!」と、ぼくに向かって親指をたてた。それがジニーとの初めての出会いだった。後にぼくは彼女に恋をして、つきあって、ふられるのだが。それはさておき、今度はぼくに打順がまわってきた。カキーン!大きく弾んだ打球はレフトの頭上を越えていった。

ぼくはヒーローだった。そこにいた者たちが興奮気味にぼくに声をかけてくる。「ハルのうちに住んでいるのか?」「どこから来たの?」「なんでニューポートに来たの?」。ぼくはまるで小学校の転校生で、彼らは物珍しげに転校生を囲む生徒たちのようであった。


その日を境に、ぼくは彼らに、そしてこの街に一挙に溶け込んでゆく。この日、ファインプレーや大きなヒットがなければ、そのあとの日々がずいぶん違っていただろうと今も思う。この日のソフトボールが、アメリカ人がぼくを知り、認めてくれるきっかけを作ってくれた。ぼくのアメリカでの第1歩はソフトボールのおかげで始まった。



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【アメリカに行こう】

当時つきあっていた彼女と離れたくないというだけの理由で、行きたくもなかった県内の大学に入ってしまった。当然、学校に対する興味や期待はほとんどゼロ。入学以来、ぼくはほとんどまともに授業に出席せずに、スイミングスクールや塾の講師といったアルバイトに明け暮れる日々を過ごしていた。3年生になって間もない頃には、その彼女にふられてしまい、絶望的に落ち込む日々が続いて、しかも就職活動の時期が迫ってきていた。地方の無名の大学ということもあって、将来への展望もほとんど見えなかった。

そんな不安でいっぱいで、暗澹たる時期にぼくはハル・サリバンに出会った。


 大学では法学部に籍を置いてはいたが、法律には何の興味もわかず、選んだゼミが「20世紀のファシズム研究」。法学部の教授でありながら、右翼思想家として、革命家として広く知られる北一輝の研究家であるゼミのH教授は学内のちょっとした変わり種だった。頻繁に喫茶店でゼミを開き、授業の一環という名目で韓国グルメ旅行と、ぼくらにとっては、気楽につきあえる良い人で、何より、努力しなくても単位をくれそうな先生だった。


ゼミがはじまって間もなく、大学近くの安い居酒屋で開かれたゼミの飲み会。留学生科の世話役でもあるH教授は交換留学生であるハルを連れてきていた。ハルは元々軍人で、駐留していたハワイで日本人の女の子に熱をあげて以来、日本に住むことを夢見るようになったらしい。ヒゲをたくわえ、豪快に笑い、バカバカ煙草を吸うハルとぼくはすぐにウマがあった。ぼくは英語を少しは喋ることができたこともあって、その日以来、ぼくたちは飲み友達になる。閉そく感でいっぱいの毎日だったから、楽天的で、人生を目いっぱい謳歌しているハルと飲み歩いたりして遊ぶのは刺激的だった。


飲んだ後に実家に帰るのがおっくうになって、そのうちに大学のすぐ裏にあったハルの住む古い公団マンションに住みつくようになった。おせじにも素行が良いとは言えない、学校のはみ出し者であるぼくの友人たちも、気取ったスノッブな人たちを軽蔑する態度を隠さないハルを“認めて”、いつのまにか彼の部屋は我々のたまり場と化してゆく。

そんなつきあいが半年ほどたったころ、「俺はあと少しでアメリカに帰る。お前も一緒に来いよ。」ぼくの実家でビールを飲みながらハルが言った。このまま漫然とした日々を送って、おそらく就職もうまくいかないだろう。せっかくの学生時代、何か心に残ることをしないと後悔する。しかし、外国で暮らすことで孤独になったりしないだろうか。うまく、溶け込めずに、みじめな日々を過ごすことになったりはしないだろうか。マイナス思考に陥ったとしても不思議ではなかった。しかし、ハルがいっしょにいるのならば、孤立したりすることはないだろう。そして何よりも「人生一回きりだから」という僕が強く持つ信念は、ハルの誘いにのっかることを選んだ。アメリカで暮らしてみよう。人生が間違いなく大きく変わるだろう。何かが開けるかもしれない。そして、ずっと憧れていたアメリカ。大好きなロックの国アメリカ。碧い目の少女たちが微笑みかけるアメリカ。

「行ってみよう」。 心を決めた。早速、ぼくは向こうでの学費をかせぐためにバイトに精をだしはじめた。


 ハルは出身地であるロードアイランド州の大学の中から入りやすそうな大学を選び、願書を取り寄せてくれた。かなりのリベラルな親だったので、簡単に説き伏せた。大学からの“合格通知”をもらい、アメリカ領事館に行って、F-1と呼ばれる留学生ビザを取得し、という具合で拍子抜けするくらいトントン拍子でことは運んで行った。

 
 このときは、とんでもない落とし穴が待ち構えていることには全く気付いていなかった。


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【眼下のマンハッタン】


当時、日本からアメリカに飛ぶには、燃料補給のためにアラスカのアンカレッジを経由するのが普通だった。ぼくは比較的運賃が安い大韓航空に乗って、成田からアンカレッジ経由でニューヨーク、そこから大陸横断鉄道として知られるアムトラックに乗って、留学の地であるロードアイランドのニューポートを目指すことになった。


アンカレッジに向かう機中、中央に4つの席が並ぶ列の端っこにぼくは座っていたのだけれど、隣には女子大生と思われる女性ふたりがにぎやかにおしゃべりしている。ふたりともかなりの美人で、ひとりは黒く長い髪をした清純派っぽい、ぼく好みのルックスで、もうひとりは、女優で「極道の妻たち」などで知られる、かたせ梨乃似の美人だった。

嗚呼、こんな子たちと一緒にアメリカを旅することができれば、どんなに楽しいだろうなあ、などと妄想しているうちに、飛行機はアンカレッジに着陸した。

アンカレッジの空港はがらんとしていて、数えるほどしかない店はどこも恐ろしく地味で、日本の元大物司会者OKの経営するショップだけが派手な看板とディスプレイで異彩を放っている。ジャージに着替えたらしい、隣の席に座っていたふたりがラウンジでストレッチをしているのを横目に、日本の空港のそれとそっくりな、カウンーだけの地味な日本食の店で、おそらく暫くは食べられないだろう、うどんをすすった。


出発の時間が来て機内に戻ると、となりのかたせりのが突然、話しかけてきた。彼女たちは友達ではなく、偶然隣り合わせになったのだという。かたせの方はニューヨーク州の大学に留学していて、日本に一時帰国していたと言う。ぼくもロードアイランドに留学することを話した。すると、かたせは「今日はマンハッタンに泊まるの?」と聞いてきた。JFケネディ空港に着くのは夜の11時近く。もう交通手段はタクシーしかない。高いお金を払ってマンハッタンに泊まる余裕はない。ぼくは、空港のベンチにでも寝るつもりだと答えた。翌朝、バスでアムトラックが発着するセントラルステーションに向かうつもりだったのだ。

かたせは、「空港近くのホテルに泊まるのだけど、ソファとかでよければ、泊まりなよ」と言ってくれた。ぼくは、内心喝采を叫んだ。遠慮するよととりあえずは言ったものの、

「いいから、いいから。空港で寝るなんて危ないよ」、

何度もかたせが誘ってくれたのを素直に喜んだ。


飛行機はニューヨークに近づいていた。タバコを吸うために喫煙席エリア(今はもう姿を消してしまったが)の窓側のシートに座ると、眼下に広がる光景に目を奪われた。マンハッタンの明りだった。住宅街だろうか。規則正しく碁盤の目のように配列されたオレンジ色に光る点が漆黒の海に浮かぶ星のようにどこまでも広がっている。そして、その向こうには摩天楼が無数の小さな宝石を身にまとったように浮かび上がっている。

「アメリカに来たんだ」。一気に、アメリカ暮らしへの期待と不安がないまぜになって胸を締め付ける。これからどんなことが待っているのだろう。どんな人と出会うのだろう。

 


その夜、かたせの好意に甘えて、高そうなホテルのだたっ広い部屋に泊めてもらったけれど、すぐそばに可愛い女の子が寝ていることと、これからの不安であまり眠れないうちに、アメリカで最初の朝を迎えた。


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# by daisukecello | 2014-11-09 00:20




Last America 最後の古き良きアメリカ留学記①

ダンは、少し湿ったような匂いがこもる、ゆうに築五十年はあろうかという古い三階建ての家にある自室の机に向かって「パーソナルコンピューター」なるものを僕に実演してみせてくれていた。

「“メール”と言ってね、コンピューター上で、手紙を送りあえるのさ」

「パーソナルコンピューターは、計算するだけじゃなくて、知りたい情報を瞬時に簡単に手に入れることもできるんだ。」

ダンの熱心な説明にもかかわらず、ぼくは生返事をするしかなかった。頭の中は明日帰国することや、思い出がつまったアメリカに別れを告げる悲しみでいっぱいだったし、そして何よりも、彼(後に大学でコンピュータの先生になるのだが)の言っていることがほとんど理解できなかったのだ。


それは2年を過ごしたアメリカから日本に帰国する前日のこと。1989年の春。まだインターネットもメールも携帯電話も一般的にはほとんど存在しなかった。その後、90年代に入ってコンピューターやメールはすさまじいスピードで普及してゆく。アメリカ人のコミュニケーション手段も、日本のそれと同じく、メールやインターネットがその中心となっていった。

そう、アメリカで過ごした1987年から1989年は、思えば最後の古き良き時代であった。人々がデジタルやバーチャル的なもの頼ることなく、直接触れ合って、対話して、ぶつかっていた時代。手作りが本流だった時代。アメリカのあり方そのものを変えてしまった911の悲劇も、相次いだ高校や大学での銃乱射事件もリーマンショックも、ずっと後のこと。それは最後の「古き良きアメリカ」だった。


東海岸、ニューイングランド地方のロードアイランド州、ニューポート。美しい海と複雑に入り組んだ入り江、そして今も残る古きアメリカの街並みが多くの観光客を呼び寄せる街。家族も仕事も何も背負うものがなかった青春の時代をぼくはここでたくさんの友人とともに、そして恋人とともに過ごした。わずか2年間だったけれど、それは日本で流れる10年の歳月にも匹敵するほど長く、濃密な時間だった。

最近、フェイスブックで久しぶりにつながったアメリカの友人たちは異口同音に、「お前が居たあの頃が一番楽しかったよ」とこの時代を振り返る。誰もが気楽で自由な身分だったからという理由だけでなく、早足にすべて駆け抜けてゆく今とは違って、のんびりとした時の流れがそこにあったことを覚えているからだ。ぼくは、幸運にもたまたまそこに居合わせることができたのだ。これまでは、後ろ向きの行為のような気がして、この時代をわざわざ思い返して、記録に留めておくことはしなかった。しかし、今は、そうすることが確かな意味を生むような気がする。

ひとりの日本人学生を通して見た、そんな古きアメリカの最後の姿を、当時のメモや記憶と友人たちの証言を基に書き記し、伝えてゆこうと思う。




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